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あれから26年です。
あの瞬間わたしは日本には居ませんでした。
日本より2時間時差があるシドニーの朝でした。
日本にそろそろ帰国になるので荷物をいろいろ整理していたあの朝。
現地で9時(日本では7時)くらいだったと思うのですが、テレビのニュースで
コービーコービーと叫んでいます。
コービーってなんだろう?とふと画面に目をやるとそこには日本語の文字。
NHKの日本の放送画面がそのまま現地のテレビに表示されていて、
コービーが神戸であることを知ります。
最初は何か事故かなと思いきや、大きな地震であることを知ります。
ヘリコプターからの映像はとても現実とは思えない、震災の時の津波もそうでしたが、
なにかの映画のセットかな?と思いました。
しばらく見ているとこれは尋常じゃない、大阪の実家は大丈夫なんだろうか、と
日本に国際電話を入れます。
ところが、どこで回線が止まっているのかわからないけれど、電話が繋がりません。
英語の自動音声が流れるのみ。
実家と連絡がついたのは数日後だったように覚えています。
日本への荷物をポストオフィスに持っていくと、カウンターのおばさんが
本当に悲しい顔をして、日本は大丈夫なのか?あなたのご家族は?
なんでも力になってあげます、祈ってあげます、と
本当に親切なオーストラリア人。
私の家族は無事です、と伝えると、私がもらい泣きするくらいのオーストラリア人の
こちらを気遣いする顔を思い出します。
ちょうどその日は、たまたま日本から来た大学生たちをシドニー市内を案内してあげてほしい、という
要望がワーキングホリデーオフィスの事務の方から言われていました。
昼にタウンホールの階段で待ち合わせをしていたんですが、
そこに現れた10人ほどの学生さんたちは、みな関西の出身。
とてもシドニーの町中を楽しむという雰囲気ではなくて、ちょっと話をして
ご飯を食べながら、今日はホテルでみんなでこれからどうするかを考えた方がいい、と
そのまま解散。
せっかくの卒業旅行だったようなのですが、その後ちゃんと日本に帰れたのかは
わかりませんでした。
本当に嫌な思い出でした。どうすることもできないジレンマ。
私の帰国日は2月14日を予定していました。
実家で何かあれば飛行機の日程を変更しないとなあ、と思い、自宅に戻って
テレビで様子を確認しながら整理をして一日が終わりました。
多くの人があの地震で亡くなりました。
多くは建物の下敷きになったのが原因です。
日本は地震の上で生活し、地震と共存しなくてはならないことを
実感した最初の日だったんじゃないでしょうか。
それまでは、まあなんとかなるやろ、という気持ちが、
あの時から、震災には備えが必要。
そう気持ちの切り替えをした日だったように思います。
さて、今のこのコロナ禍はどうでしょうか?
まだ誰も、どんな学者も医者も政府も、誰一人コロナについて分かっていません。
ワクチンが出来たとしてもそれが効くのか、副作用がどうなのかもわかりません。
コロナも震災のひとつのようなものです。
今、私たちの知恵と行動で何をすればいいのか。
多くの人を死なせないためにはどうすればいいのか。
じっくり考える日と思います。
手洗いをし、密を避け、自身の健康維持をしっかりとしましょう!
これだけ政府や医者が言っても用事もないのにまだ外に出歩くのは、自殺行為、他殺行為です。
その上で自身が感染したら治療が欲しいと訴えるのは本当に自分勝手です。
そういう方のせいで、他の病気で本当に治療が必要な人も病院が使えなくなるなんて
考えるだけでも嫌になります。
出かけなければいいんです。実行しましょう!
謹んで新年を迎えることができました。
とてもおめでとうございますという気持ちにはなれない世の中、
そして経営状況ですが、
ま、なんとかするしかない
というスタートです。なんとかなるでしょう〜ではありません。
なんとかするしかない、
です。
今年で52歳です。体力も精神力もいろいろ結構つらい時が多くなりましたが、
なんとかするしかない、
そう思っています。
もう前向きに走る以外ありません。一緒に走りましょう!